「道士郎でござる」が完結しました。


 私は非常に楽しく読んでいたため非常〜〜に残念でなりません。しかし、少年マンガ的フォーマットを少しはずしているため、どうしても受け入れる人を選んだのだと思います。


 このマンガの主人公である道士郎には具体的な目標が設定されていませんでした。例えば、日本で一番偉い人間に仕えるとか、侍トーナメントで優勝する(笑)とか。作中において、「殿の仇討ち」を望んではいましたが、健助がヤクザにやられるというのは作品の印象を悪くしますし、たとえ挿入してもワンエピソードどまりでしょう。
 私の知人で「「ONE PIESE」は何が目標なのかわからないからつまらない」と言った人間がいます。作中で「海賊王になる!」と宣言していますが、マンガを読み慣れていない人間にはこれでも抽象的なようです。たとえば海賊王を象徴する剣を探すとか、親の敵である海賊の首領などがいないと、物語を把握しづらいのだと思います。
 その点を指摘するなら、この作品はあまりに漠然とし過ぎているのかもしれません。ですが、この作品はそもそも道士郎の活躍を楽しむのではなく、道士郎と関わることによって巻き起こる、人々や事態の変化を楽しむべき作品だと思います。方向性をあえて示さず、さまざまな彼らの日常を楽しめるのだと思います。


 道士郎がどんなに規格外の戦闘力をもっていても、決して全てを一人で解決できるスーパーヒーローではありません。彼自身が口にしているとおり「戦うこと」しか能がないため、極論すれば彼の存在は「強力な武器」の域を超えていないわけです。戦いの切り札にはなるものの、事態を解決するのは健助の交渉や判断による結果です。
「ヤクザ相手でも簡単にけしかかる」道士郎に右往左往する健助などは見ていて笑えるのですが、これにはもう一つの側面があります。道士郎という強力な武器に思い上がりヤクザを懲らしめるのではなく、健助は敗れる危険性や派生する状況にまで考えを巡らせます。それこそが、「強力な力を持った者が自覚すべき責任と義務」ではないでしょうか?
 健助が殿になろうと考えたのは、強力な味方にしようという利己的な判断でした。そこから発展したうえでの現在だと思っているため、道士郎が健助を殿と認めた理由がホークアイの助言だとするのは非常に残念です。


 脇役について。
 通常の少年マンガでは脇役の頑張りや敗北は主役が活躍するための前振りでしかありません。あくまでも対決を盛り上げるためのスパイスです。
 しかし、この作品では健助や早乙女は道士郎をあてにせず、己の意志で敵に立ち向かいます。ケンカの勝敗などささいなことです。ささやかな、自分の誇りや意地のため、決して挫けません。以前、健助が実感したように、「誰にも感謝されることはないだろーが、俺はやったろ?」という想いが全てなのでしょう。この非常に地味ながら尊いことを、西森先生はさらりと表現してしまいます。まさに名人芸というべきです。


ヒカルの碁」や「め組の大吾」なんかでも思ったことですが、この作品も地に足のついた世界観だと思います。
 横十二高をやめたとき、彼ら自身に(ほとんど)罪はないわけですから、許されて復学してもかまわなかったはずです。しかし、そうはせずに彼らは新しい高校へ編入することとなりました。
 めでたしめでたしで悪い状況を覆すのではなく、起こした事件の責任を取りつつ先へ進むというのは、少年マンガではほとんど見られないことです。「罪を背負う」とか口先だけですまして、けろっと忘れてしまう作品とは雲泥の差です。
 主人公の設定がファンタジーであっても――むしろ、ファンタジーであるからこそ、それ以外のディテールをおろそかにすべきではないと思います。
 非常に希少なこの「道士郎」の世界が失われてしまうのが、残念でなりません。