学校を出よう!シリーズがあわなあかった件


6巻までを読み終えた素直な感想。
――「ハルヒ」を好きな私でも、「学校を出よう!」は向いていない。
基本的に奇抜な(あるいは特殊性のある)設定が多いのですが、それが物語の本筋との関連性が薄いように感じました。


私は主人公に感情移入して物語を楽しみます。「ハルヒ」の場合、事件を決着させるのが長門や古泉であっても、彼らはSOS団(キョンたち)という認識となります。
ところが「学校を出よう!」の場合は少々異なり、宮野・真琴・優弥という解決キャラは、事情を知っていて放置したり、情報をねつ造したり、酷いときには真犯人だったりするため、とても主人公の味方とは思えません。
主人公に感情移入するか、群像劇として眺めるか、読者の楽しみ方によって受ける印象も変わるのでしょう。当然、私は前者となります。


この作中に「前提が間違っているなら……」というフレーズが出ていますが、この作品では前提を間違えすぎだと思います。これは「身に迫る危機が全て幻覚と錯覚だった」というぐらいのちゃぶ台返しでしょう。


学校を出よう!」のタイトルに絡むのは一巻だけなので、シリーズタイトルは別に準備した方がいいのではないでしょうか?
むしろ、登場キャラの中で学校を出たがる人間は少数派に思えます。


以下ネタバレ




・第3巻感想


前半における真琴の行動は、事件の解決に必要なくとも、大切な意義がありました。
ところが、後半となると「現状のままで大丈夫」と行っておきながら、「はやめに解決すべき」となります。事情を一番把握しているはずの彼女が、どうして最初から対応しないのか? 対処方法は最初からあったのだから、終結の判断は真琴の気分次第となっています。前半の立ち回りに比べると、非常にお粗末な対応と言えます。(事態の進展を見なければ判断できないと擁護する余地もあるのですが、作中で明記していない以上後付にしかなりません)
宮野が「従順な茉衣子」を望んでいたのは驚きでした。彼ならば「そのままの茉衣子」を望んでいると思っていたのですが、私は宮野というキャラクターを買いかぶっていたようです。(これまた、シムの登場原理を知っていたからこその、彼のお遊びかもしれませんが、作中での言及は一切ありません)
物語優先となり、キャラらしさが失われているように思えました。


・第4巻感想


争奪戦として始まった割には、事態解決にはにほとんど影響しません。というか、協力して追いかけた方が遙かに有効でしょう。
彼らと同じ被害者のスタンスの割に、枕木は扱いが悪いですね。友人も出来なかったようですし。
そもそも、あんな終わり方をするのならば、必要なのは真琴と優弥だけのように思えます。


・5巻、6巻感想


そもそもの発端らしい、アスタリスクの介入意図が不明瞭です。状況を設定して「学園生徒の行動を見る」という実験目的ならば納得出来るのですが、その記述はありません。そうなると、事件の顛末を知っておりそこまで誘導するのが目的のはずです。それを考慮すると、彼らが介入する意図や回数が疑問となります。
真琴が弱音を吐いたときに介入して対応策を授ける(?)のですが、真犯人が真琴なのだからここで介入する必要性はないと思われます。
また、宮野が気付きかけたときに、阻止しようとして数回の介入を行いますが、これはなぜでしょう? 彼らは「介入が不可能」だということを、介入しなければ解らなかったようです。
上位者であるはずの彼らですが、知っていることと、知らないことのばらつきが大きく、非常にご都合主義に思われます。
真の目的が優弥というのも納得出来かねます。作中で事件を起こしたと言えるのは1巻のみであり、危険視する理由が設定でしか提示されていません。この事件に関する限り、真琴の方が遙かに迷惑な存在に思えます。